「夏の蜃気楼」〜自然をうつしだす現代の作家たち〜
「Mirage on a Summer Day 」Reflections on Nature by Contemporary Artists
群馬県立館林美術館 Gunma Museum of Art,Tatebayashi  2005.6.25〜8.31
The Other Side 1
墨,カラーインク,膠,
テトロン布地,木

H303cm×W236cm×D24.5cm

<部分>
<横>
The Other Side 3
墨,カラーインク,膠
テトロン布地,木

H196cm×W265cm×D22cm

「自然」をモチーフにすること

「自然を大切に」「豊かな自然」などといって普段私達が『自然』とよんでいるものは、英語で言うと「NATURE」のことであるが、これはもともとあった日本語ではないそうだ。幕末から明治にかけ日本が近代化していく中で、始めて触れる西洋の文物に対して様々に訳語や解釈がつけられた。これもその一つで、「NATURE」にあてた訳語なのである。

それまでの日本人には、その意味での「自然」を持ち合わせていなかった。

それまでの人々にとって、山は山であり、河は河であって、その中に生きる人もまたその一部であって、あえてそれを客観的にとらえる必要も、言いわける言葉も必要としなっかたらしい。
本来の「自然」という言葉は(しぜん)あるいは(じねん)とよみ、<自ら然り><おのずからそうなっているさま><天然のままで人為の加わらぬさま>をさす。

もともとは「言い表わす必要がなかったもの」なのに、外来の考え方を解釈する為にあてた言葉が転じて、逆に今度はそれを指し示す言葉、言い表わす言葉として定着している。「自然」と呼んでいるものはこういう経緯をもっている。

「自然」の中にいるのは楽しい。風や光りを感じ、木々や草花の芽吹き、虫や生き物の営みに触れる。
雄大な光景も、小さい出来事も生々とした魅力で溢れている。

人が「自然」のこうした魅力に惹かれるのは、今も昔も変わらない直の感覚であると思う。

神木に囲まれた鳥居の向こうや苔むした祠に、今よりも自然の恩恵によりそって濃密な関わりをしていた痕跡を、畏敬と畏怖の形をみることもできる。

しかし、それらとは違った、また別の感覚が立ち現れてくることがある。
「ああ、こういうことなのかもしれないな」と思う。
人がどういう思考を持って、どういうまなざしを向けようと、また向けまいと、ただ、ずっと、そこに、そうしてきた、繰返してきた、という光景である。

私達の思考やもののとらえ方というのは、さなざまな背景をもって成り立っている。
それは時代や環境と複雑に絡みあっているし、昨日の価値が今日は一変とは言わないまでも、常に今の有効性に照らし合せて微妙に少しずつ動いてもいる。

それはそんなことを思いおこす瞬間でもある。
吉賀あさみ Asami Yoshiga
The Other Side 2
墨,カラーインク,膠,
テトロン布地,木

H118cm×W143.7cm×D22cm